星の見えない、真っ黒な都会の夜空。ビルの隙間風が冷たく、びゅうびゅうと吹いている。その中を縮こまりながら足早に歩く人影が一つ。
やっぱり昨日、横着せずにきちんと冬物をタンスの奥から引っ張り出しておけばよかったと彼は後悔する。マフラーがないせいで、首周りの防御力が皆無に近かった。コートの襟を立てて、家路を急ぐ。しかしそれにしても寒い。どうにかして温まりたいと思って何気なく周囲を見回すと、折よく自動販売機が視界に入った。
「ラッキー」
彼はそう呟きながら、暗い夜道の中、煌々と光を放つそれへ駆け寄った。忙しない動きでコートのポケットの中を探り、財布を取り出す。【あたたか~い】という赤い字の上に陳列された飲み物をチェックする。コーヒー、紅茶、ココア、おしるこ……と色々ある中で彼が選んだのはコーンポタージュであった。百二十円を財布の中に探したが、あいにく小銭の手持ちは百円玉が三枚と、一円玉が九枚だけだったので、彼は百円玉を二枚、コイン投入口へ入れた。がらんごろん、音を立てて熱いコーンポタージュの缶が転がり出てきた。缶に手を伸ばすが、その熱さに思わず手を引っ込める。
「あちち」
コートの袖を引っ張って、火傷しないようにと缶を持ち直す。そして早速、ふたを開けて飲むことにした。
ぷしゅ。途端にコーンポタージュの香ばしい匂いが鼻腔を満たした。
「ふー」
一口飲んだだけでも、じんわりと身体が温かくなる。と、その時にお釣りを取り出すことを忘れていたことに気付いて、彼は腰を屈めて返却口へと手を伸ばした。ぴったり八十円を手に、また姿勢を戻した時。自動販売機の側面に色褪せた一枚のビラが貼ってあることに気が付いた。
(こんなところにビラ?)
貼られた場所を不思議に思って、どんな内容が書いてあるのだろうとそれを読んでみる。
【君は世界のすべてを知っているかい?】
まずはそんな一文が目に飛び込んできた。どこか厨二病っぽいその言葉に、彼は一人で吹き出した。
(すべて…って知ってるわけないやろ)
とりあえず、文の続きを読む。
【あなたが世界を知るお手伝いをします】
またまた彼は吹き出してしまった。またもやすごい、なんというかクサい台詞である。どこかの新興宗教の勧誘ビラか何かだろうか。でも、それだとしたらこんな変な所に貼るだろうか。それに続いて、このツアーへの参加条件というものが書いてあった。てかツアーなのかよ。
参加条件
一、学生であること
二、参加費一万五千円を納めること
三、世界を知りたいと思っていること
一と二はまだ分かるが、三が謎である。君は世界のすべてを知っているか?という問いと関係するのだろうが、その意図するところはまるで分からない。しかし、どことなく彼はそのビラに興味が湧き始めていた。危険な好奇心、とも言えよう。
彼は平々凡々な大学生で、講義のない時間はバイトに明け暮れる日々を送っていた。バイトをするのは特に目的があってのことではない。旅行に行きたいというわけでもないし、何かが欲しいというわけでもない。大学の同級生の多くがバイトをしているから、自分もと思って始めただけだ。思えば、これまで『なんとなく』で決めて、『なんとなく』生きてきたような気がする。特に大きな出来事もなく、山も谷もない人生。
新興宗教の勧誘ビラかもしれない。悪質な詐欺かもしれない。妖しさ百点満点中百二十点のようなビラだ。でも、少しだけ踏み込んでみようか、と思った。
人と変わった経験をしてみたい。自分の世界も少しは変わるかもしれない。
彼は気づいていなかった、この瞬間自分がビラの参加条件の三を満たしていたことに。
「えーと、ツアーみたいだけど…」
ビラの最後にツアー実施予定日と、参加費の振込先、そして参加申し込みの連絡先が記載されていた。
【ツアー実施予定日は次の通り。
2020年3月6日~9日の三泊四日】
今から数か月後。なるほど、ビラはひどく色あせていたが、わりと最近に貼られたものらしい。しかも、ちょうど参加受付期間中のようだ。どうにもタイミングが良すぎてなんだか仕組まれたみたいだ、と思わないでもなかったが、それ以上に好奇心の方が大きかった。
彼はコートの内ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動させてそれを写真に収めた。『平凡』な日常から少し抜け出して、未知の世界に、一歩踏み出したような感覚。それが心地よかった。
家に帰宅するなり、彼はすぐにパソコンを立ち上げた。そして使い捨てのメールアドレスを作る。実際に悪質なものだった時を考えての予防策である。そして、ビラの連絡先へ参加希望の旨をメールした。次の日には銀行へ行き、一万五千円を口座へと振り込んだ。振込人名義は『おっちょこひょっとこの助』というふざけた名前にしておいたが、返信は来るだろうか。
しばらくワクワクして過ごしたが、一か月が過ぎたころにはそんな気持ちも無くなっていた。やはり詐欺だったのだろう。一万五千円は少し高い授業料だったと考えるしかないか、とそう考えて、このことを忘れることにした。
時間は経ち新年になり、三月がやってきた。彼は唐突に、数カ月前に申し込んだ不可解なツアーのことを思い出した。そういえば、今日は3月6日だ。ツアーが始まるはずの日。しかし何も案内がないことを考えると、やはり詐欺だったのだろう。
彼は小さくため息をついて、自室のベッドの中へもぐりこむ。暇だなあ、とぼんやり思っていると、突然部屋の明かりが切れた。すわ停電かと思っていると、勝手にパソコンがひとりでに立ち上がった。
「え?」
真っ黒な画面に、白い文字が浮き上がる。
【君は世界のすべてを知っているかい?】
【 続】