ヒトヒトの国~THINK×ANALYSIS~
どうも宇宙旅行へいくことになったらしい。現に、目の前にいるクルーたちはがっつり宇宙服だ。
だが頭の理解が追い付かない。一息つく間もなく、次の企画が始まったみたいだ。
女性クルーが一人、前に出てきて自己紹介を始めた。
千田と名乗った彼女は【参謀】という役職なのだそうだ。
あ、私は誰かって?自己紹介をするのを忘れてたね。
私は大学卒業を目前に控えた普通の大学4年生。四月からは社会人として一人立ちして、会社で働くことになっている。
最近悩んでることがあってね……。
四月から働くとなると、もちろん内定式や入社前研修などがあるんだ。
そのときに会社の人にいつも言われる言葉があってね…。
『新しい視点、新しいアイデアを出してくれることを期待しています』
こう言われるたび、私は不安を感じるのだ。
自分はアイデアマンというわけでもないし、特別他人より優れているわけでもない。他人が気付かない所に気付けるほど敏感でもないし、センスもずば抜けているというわけでもない。期待に応えられる自信がなかった。
そもそも、新しい視点、新しいアイデアってなんで必要なんだろう。それまでのやり方があるなら、そのやり方を踏襲するだけでも十分な成果を上げられるのではないか。
――――そう思っていた。この企画で、「ゆでがえる」という言葉を知るまでは。
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『ヒトはゆでがえる生き物である』
初めて目にする文言だった。意味が分からない。
私は首を傾げた。それは周囲のみんなもそうだったようで、一様に戸惑ったような表情を浮かべている。
「ゆでがえる……ってどういう意味なんだろう?」
隣の席の人が話しかけてきた。この人誰?と思ったけどまあいい。
「さあ……“ゆで”ってのは“茹で”なのかな」
「なるほど。じゃあ、“がえる”は何?」
“がえる”とは何か。“ゆでがえる”とはどういう意味なのか。ヒトがゆでがえるとは、例えばあれか、地獄の巨釜?
……いやそんな話を今からするものだろうか。考えてみるも分からず、二人して沈黙した。
すると、私たちの反応を見てか、クルーがゆっくり前に出てきて、話を始めた。
「まずはこちらの動画を見てください」
ゆでがえらないカエルの動画
ゆでがえるカエルの動画
クルーが私たちに紹介したのは、ただのカエルの生態の話かと思いきや、そうではなかった。話を聞けば聞くほど、非常に示唆に富むたとえ話であったと気付く。
まず一つ目の動画は、あらかじめ熱した湯へカエルを入れると、その熱さに驚いて湯から飛び出すというものだ。
二つ目は、常温の水にあらかじめカエルを入れておき、それから徐々に熱していく。するとこの場合、カエルは熱湯から飛び出ないという。湯の温度変化が緩やかなために、自分が茹でられていることに気付かず、しまいには死んでしまう……。恐ろしい話だ。
クルーがはっきりとよく通る声で言った。
「意識してほしいのは、ここまでのたとえ話の中に出てきた“湯”ですが、私たちにとって“湯”にあたるのはなんだろうか、ということです」
私たちにとって“湯”にあたるもの?
クルーは数分ほど、シンキングタイムを設けたが、ほとんどの人がピンと来ていない様子だった。私もその一人だった。
徐々に熱くなっていくのに、自分が死んでしまうとも思わずに湯に入り続けるカエル。じわじわと真綿で自分の首を絞めるような、緩やかな自殺行為とも言えるそれに少しの恐怖を抱いた。
クルーが一人の参加者を指名した。
「どうですか、何か思いついたでしょうか」
指名された参加者は椅子から立ち上がった。
「私たちにとっての“湯”とは、いわゆる“組織”というものではないでしょうか。」
クルーが微笑んだ。
「お見事!正解です」
クルーが続けて言った。
「人は必ず何らかの組織に属しています。みなさんも、地球では例えば、大学のゼミやバイト、学生団体、クラブ・サークルなどに属していると思います」
「社会の中で生きていくためには、必ず何らかの組織に所属しなくてはなりません。なにものにも属することなく生きている人は、まずそもそも社会で生きていない……と言えるでしょう」
「さて組織に属するということは、どういうことか。それは、ここに答えがあります」
私は示されたその文章を読み、衝撃を受けた。
必ず世の中の平均的な考え方や価値観からずれている。
「……確かに、組織の中には組織の中だけのルールがあったり、暗黙の了解的なものがあったりするよね。他の所には無かったりするし」
隣の席の人が言う。名前を聞くタイミングがなかなかつかめないなと思いながら、私はそれに頷いた。
確かにそうかもしれない。以前友達との会話で、自分が“世の中の平均的な考え方や価値観からずれている”と感じたことがあったからだ。
友達とは、ゼミの飲み会でのルールについての話題になったのだが……。
例えば、私が所属するゼミでは、先生が飲み会をする店を決めるのだ。なぜなら、自分の好みの店で飲みたいからだとその先生は言っていた。
それを友達に話すと、『信じられない』と言われた。その友達が言うには、『先生の手を煩わせることになっている。それは失礼にあたるのではないか』ということだった。
私は『先生の手を煩わせているのは確かにそうかもしれないが、店の選択に先生が不満を感じないのだから、問題であると感じたことは無い』と答えたが、その友達は最後まで納得がいかない表情をしていた。
その経験を隣の人に話すと、その人は深く頷いた後に言った。
「なるほど、そんなことが。組織の中にいるとね……。何の疑問も持たなくても、納得できる理由がある時でも、外から見るとヘンに感じる時があるんだね」
その組織にとっての“当たり前”が、世の中の“当たり前”とは異なる可能性があるということ。
私はひどく不安になった。
自分だけでは自分が世の中の平均的な感覚や、他の人の当たり前とはずれていることに気付くにも限界がある。
そして自分の意図しない所で、歯車が狂っていき、大きな過失や事故につながってしまったら。
どう責任を取ればいいのだろうか。
「さあ、みなさん!みなさんにとっての当たり前が、他の人にとっても当たり前であるとは必ずしも言い切れないこと、ご理解いただけたでしょうか」
もはや参加者はみな、真剣な目つきでクルーのことを見つめていた。参謀――千田と名乗った彼女は、やや大仰な仕草で話題を変えた。
「さて、“ゆでがえる”の話に戻りましょう。私たちにとって、“湯”とは組織のことを比喩していますが、“ゆでがえる”と、どうなってしまうのか見ていきましょう!」
「最初のたとえ話を覚えていますか?死んでしまったカエルは、最初は普通の水の中に入っていましたが。そこに火を付けられ、徐々に熱されます。それに気付かずに、結局ゆでがえって死んでしまいましたよね」
あのゆでがえって死んでしまったカエルが特別に愚かだったということではないのだ。
誰もが自分にとって“熱湯”になりうるものが存在していて、それは気づかない間に自分の認知や感じ方、基準などを組織の中向けに歪めていくのだ。
その歪んだ視界に慣れてしまったが最後、非常にまずい事態に陥ってしまうのだろう。見えている世界が歪んでいることに気付かないまま、正しく歩くことは難しいのだから。
「これが組織に属する人にも同じことが言えるのです。組織の内部も時の流れと共に変わっていきますし、組織を取り巻く環境も徐々に変化していきます。ですが、その変化に気付かないままだと、問題を放置し、ついには自らの生命線を断ってしまうような悪い結果につながってしまう危険性があります」
私は手を挙げた。
「ゆでがえらないように注意するには、どういうコツがありますか?」
私の質問にクルー【参謀】はニッコリ微笑んだ。
「そうですね。それを今からお話ししたいと思います」
「まず一つ、第三者目線から、物事を捉える、現状を把握するという作業が重要です。繰り返しますが、徐々とした変化には気付きにくいものです。だからこそ自分一人だけではなく、自分が所属する組織の外側にいる人からの言葉にも耳を傾けることが大事です」
「そして二つ目。新しい意見、組織の中の常識とは異なる意見が出てきたときに、その意見を前向きに聞いてみましょう。さらに認めるのには勇気がいります。しかし、いつまでも現状維持では組織はどんどん世の中の流れに置いていかれるだけで、だんだんと内部から死んでいくのです」
「現状にあぐらをかくのではなく、第三者に意見を聞いてみる、自分の価値観を他人と比べてみるなど、自らの視点が固定され過ぎないように、自己変革の精神を持つべきでしょう。」
クルーは一切よどむことなく、言い切った。そして私たちの顔をじっくり見つめて問うた。その視線の強さに思わずドキリとした。
「自分はゆでがえっていないという自信のある人はいますか?」
誰も手を挙げなかった。
クルーは満足げな表情を浮かべて言った。
そうしてクルー【参謀】は話を終え、再び管制室へと戻っていった。その足取りはしっかりとしていて、彼女は正しく世界を見つめて歩いているのだろうと思わされた。
私はここまでの話を思い出す中で、自分にかけられつづけてきた『新しい視点、新しいアイデアを出してくれることを期待しています』という内定先の人からの言葉は、ゆでがえらないために必要なものを示していたのだ、と唐突に理解した。
「あの人たちは、ゆでがえらないように気を付けているんだ」
今回の企画を通して、ゆでがえらないようにするには第三者目線での意見をよく吟味する意義や、組織に属するということは世の中の平均的な感覚や基準とはずれているということであり、それを理解しておく重要さを学んだ。
それに、“自分”というのは、どこかでは他人にとって外側の人間になり得るわけだ。その時によい意見が言えるように分析する力も身につける必要があるだろう。
これから、四月からの勤務に向けて成長しなきゃいけない。嫌な気分ではなかった。ゆでがえらない方法を知った自分の前には、前よりずっと広い世界が広がっているような気がした。